「歩かず、寝たまま健康になることはあり得ません。ちゃんと歩行できる体をつくって、維持すること。そのためには骨盤の機能が最大限に発揮されるよう体を整えることが重要です。」
ゆっくりとした、ソフトな口調ながら、その口から出てくる言葉には迷いがない。
梶谷真太郎、34歳。
治療家業界では若手とされる年齢ながら、セミナーや動画などで全国の100人以上の治療家に治療技術と体の仕組みの知識、健康情報を伝えている。
今やコンビニより多いと言われ、開業後1年も経たずに廃業に追い込まれる治療院が続出する中、決して安価ではない自費診療のみで、安定した経営状況を維持できるだけの患者数を7年以上にわたって保っている「健寿の森」の強みは、この梶谷の高い技術と豊富な知識に因るところが大きいだろう。
今日も明日も、院を訪れる患者さんの話に、時間をかけて耳を傾け、そして全国の治療家への啓蒙のために動画配信をし、セミナーの準備をする。
患者さんの先生であると同時に、治療家の先生でもある梶谷の現在は、いかにして作られたのか。
さぞかし、高い志を持って治療家の道を歩み始めたのだろう
。
そう問うと、急に人懐こい笑顔を見せた。
「いや、僕なんて全然ダメ学生でしたよ。大学のときは、治療家になるなんて全く思ってもいませんでしたから」・・・・
何の目標も、志もなかった大学生時代
「次の授業出る?代返しといてくれへん?」
また今日が始まる。これといった特徴のない一日。
適当に授業に出て、出たくない時は友達と助け合って欠席をごまかしてサボる。とりあえず単位が取れればOK。
退屈じゃないのかと聞かれれば、退屈だよと答える。
でも、退屈だからといって何をしたらいいかもわからない。
エスカレーター式に進学できたことも、良くなかったのかもしれない。大した努力をすることもなく、将来について真面目に考える時間を持つこともなく、大学に進学することが「できてしまった」のだから。
そんな毎日を、梶谷自身も「これはアカンな」と自覚していた。4年間をこんなふうに無駄にしてはいけないと思う。何かしなくては。そんな焦りはあった。
しかし梶谷には、大学で唯一真面目に取り組んでいるものがあった。日本拳法。部活の仲間とは仲良くやれていたし、何より競技そのものが面白かった。
「部活をやるために4年使ったっていいじゃないか」
そんなふうにごまかしているところもあったかもしれない。
でも、そのごまかしが効かなくなる時が来てしまった。
母の発症。その回復を支えた人物は
「あんた、何しに大学行ってるの?」
定期的に母から飛んでくる、この言葉。梶谷が最も上手にごまかさなければならない問いだったが、それがどうしてもうまくできなかった。
大学に行っているのは間違いないし、単位を大量に落として進級が危ういわけでもない。それなのにはっきりと、母を安心させる答えを口にすることができない。
「えぇ?まぁとりあえず単位は取れてるし、、、大丈夫やろ、、」
ごにょごにょした答えに、母の顔が曇る。
梶谷:自分でも「このままやとアカン」と思ってるから、母に対して安心させる答えが言えるわけないですよね。何の目的もなく通って、ただ部活だけを楽しんでいる大学生活に、自分も違和感があったし、母も悲しかったんやと思います。
梶谷のひっそりとした違和感、焦りを自らも背負ったかのように、あるときから、母は心のバランスを失ってしまう。
「おれのせいやな、、、」
ああしろこうしろと口うるさく言われなかったから猶更、梶谷は自分の責任を強く感じることになった。見るからに覇気をなくし、家にこもりがちになってしまった母。母がまた元気になるためには、自分が変わらなければならない。
梶谷は決心した。
「オカン、おれ大学辞めて働くわ!なんか自分でホンマにやりたいこと見つける!」
梶谷:部活には燃えていたので、中退するのはやはり残念ではありましたよ。でもそれより、こんな中途半端な気持ちで4年も過ごすのはキツイ、というのもありました。何より、母を安心させたいのもあるし、自分がすっきりしたいのもあった。だから、中退すると決めたときは寂しさより気持ちよさが勝りましたね。
梶谷自身が進路を真剣に考えて、中退という結論を出し、実際に中退するまでに、梶谷の家庭内に大きな変化があった。
母が少しずつ、元気を取り戻していたのだ。
梶谷が進路を再考し始めたことも好影響を及ぼしたかもしれない。
しかし、実はそれ以上に母の精神状態を支えてくれた人物がいたのだ。
それは、母が通う整骨院の院長先生だった。
梶谷:整骨院なんて、僕自身は一度も行ったことがなかったんですよ。今のこの仕事をしていると、同業者の多くは「自分が怪我をして、その時に治してもらった整骨院の先生の思い出が原点でこの道を目指すきっかけになった」っていう感動エピソードを持っているんですけど、僕にはそういうのは無くて。むしろ、誰がああいうところに通うんだろうって思っていたくらいです。
でも、母が通っていて、体の痛いところを治してもらうだけじゃなくて、悩みとかいろいろ話も聞いてもらっている。そして実際、通い始めた頃より確実に元気になっている。毎回整骨院で院長先生と話した事を僕に楽しそうにしてくれる。そういう変化を見て、今の僕では到底できない人としての影響力がある素晴らしい仕事をしているんだなって思ったんです。
自分が原因で心のバランスを崩してしまった母を元気づけてくれた整骨院の院長に、梶谷は心から感謝した。そして、感謝すると同時に、治療家という仕事に強い興味を抱いた。
「おれも人の話を聞くのは好きだから、案外向いているかもしれない」
そう思ってから、梶谷の行動は早かった。治療家になるために必要な資格や技術を調べ、どこでどんな勉強をしたらそれが得られるのか、そのために資金はいくら必要なのか、といった情報を集めた。
そして、柔道整復師の専門学校を選び、入学金と授業料が貯まるまでひたすらアルバイトをすることを決め、必死で働いた。
梶谷:親には迷惑をかけられませんからね。それに、ちゃんと自分で資金を貯めることで、治療家になりたいという思いが本気だということを示したかったんです。
幸い、母は喜んでくれましたし、父も反対はしませんでした。なんで急に治療家なの?ってビックリしたとは思いますけどね。きちんと勉強して、手に職をつけて働く姿を見せたら納得してくれるはずだから、そのためにも頑張りました。
様々な治療家との出会い
資金は1年弱で貯めることができた。どんな場所でも、相手に興味を持ち真面目に話を聞く性質からか、バイト先でも人間関係には恵まれた。
居心地は良かったが、ここはゴールではない。関わった人たちに感謝しつつ、柔道整復師の専門学校に入学書類を提出して、晴れて専門学生となった。
専門学校に通う3年間は、とても楽しいものだった。体の仕組みを知り、自らの手に技術をつけていく作業を通して、自分がめきめきと成長していくのを感じた3年間だった。
柔道整復師の学生の多くは、日中は整骨院で助手などのアルバイトをしながら、夕方から学校に行く。梶谷もいち早く実務経験を積みたかったので、
近くの整骨院で働いた。
梶谷:学校で学んだことを実務に活かすのは当たり前のことですが、整骨院でのアルバイト経験もそれに勝る貴重な経験になるんです。そこで、人柄の好い院長に巡り合えるかどうか、患者さんが治る過程をつぶさに診ることができるかどうか、といったことが、その後の治療家人生に大きく関わると言っても過言ではないと思いますね。
梶谷が働かせてもらった整骨院の院長は、技術が高く、人柄も好く、たくさんのことを梶谷に教えてくれた。どんな人とも上手くやっていけるという自信がある梶谷だったが、この院長の人柄には助けられることも多かった。
柔道整復の専門学校に通っている間だけ勤務だったにも関わらず、現在までもその院長との付き合いは続いている。
梶谷:この院長先生との出会いがなければ今の僕はなかったと思います。いつも支えてくれて、僕の目指すべき背中を見せてくれて本当に感謝しかありません。ここで働いた時間は僕の人生の中で素晴らしい経験でしたね。単に症状を治すだけでなく、患者さんと向き合うことの大切さ、人間らしさを教えてもらいました。
柔道整復の専門学校を卒業した後、鍼灸の資格も得るべく、別の専門学校に入学した梶谷は、続けて実務経験が積める場を探していた。
そんなときに声をかけてくれたのが、通っている専門学校の同級生だった。
梶谷:「うちの院に来ない?」って声をかけてくれましてね。ちょうど働けるところ探していたし、断る理由なんて何もないんで、即決しました。
いま考えるとね、僕、人間関係でゴタゴタしたり悩んだりしたことなかったんですよ。人付き合いは上手なほうだと思っていました。だから働く前に、どんな職場かな、どんな院長なのかな、そもそもこの同級生はどんな奴なのかなってことを必要以上に気にしないんです。そういう意味では、この職場は勉強させてくれましたね(笑)
正社員として会社勤めをする大人でも、職場を変えて初めて「前の会社はこんないいところがあったんだ」と気付かされることは少なくない。それが、立場の弱いアルバイトともなると猶更だ。
労働環境、上司の方針、同僚の人柄、経営状況の良し悪しといったことで、アルバイトの働く環境は大きく振り回される。改善のために強い発言をすることもできないので、不満や改善要望があっても、結局泣き寝入りになってしまうことが多いだろう。
梶谷が同級生の紹介で働き始めた治療院は、まず治療の方針が不明確だった。ただただひたすら、朝から晩まで、それも7時という早朝から22時という深夜まで、マッサージをさせられる毎日。
患者さんが良くなっているという実感も、あまりない。
それでも保険を使って安くマッサージを受けることができるから、客足は絶えない。
「何かなぁ。治療って、こんななのかな」
治療家の道を歩み始めて4年経って、梶谷が初めて覚えた疑問だった。
悪いことは重なる。
その院で、梶谷は初めて人間関係で悩むことになった。
原因は他でもない、ここで働こうと誘ってくれた同級生だ。
梶谷と院長は、それなりにうまくやれていた。治療方針に疑念がわくことがあっても梶谷はアルバイトの身、院の方針に従うことしかできない。院長との間にわざわざ波風を立てる必要はないし、きちんとコミュニケーションを取ってお互いに気持ちよく働けるよう、梶谷としても最大限の配慮をしていた。
そういう立ち回りのうまさが、もしかしたら同級生にとっては面白くなかったのかもしれない。
いや、もしかしたら梶谷は自分でも付かない、何か非常に気にくわないことをしてしまっていたのかもしれない。
いずれにしても、関係はみるみるうちに悪化してしまった。
何かにつけて、文句のような意見をぶつけてくる。それを適当にかわしても、言い返しても、どう対応しても関係は改善されない。
梶谷にとって、ここまで対人関係でこじれるのは初めての経験だった。こちらとしては、関係を悪化させようだなんて全く思っていないのに、なぜか悪意すら感じる接し方をしてくる。自分では変えることのできないこの状況に、梶谷は滅入ってしまった。
ただ、こんなつらいだけに見える経験からも収穫物を見つけ出せるのが、梶谷の強いところだ。
梶谷:しばらくは「なんでこんな目に遭うんやろう」って悩んでばかりでした。強く当たられても、「同級生やからケンカなんかしたらあかんし」なんて思って何も言えなくて。治療の方で充分納得できる仕事ができた上でのその状況なら、「ここでは技術を学べばいいから」って割り切ることができたと思うんです。でも、そっちも期待できない状況でしたから。
参りましたけど、考え方を変えれば得るものもあるな、と気付いたんです。その同級生に言われて嫌だと感じたことはしないようにしよう、疑問に思ったことは「なぜ疑問に感じられるのか」を自分なりに考えてみよう、と思いました。
例えば彼は、仕事についてスタッフ同士話し合うときの発言が非常にわかりにくかったんです。抽象的というか、精神論で終わるようなところがあって。そういうのって聞こえはいいけど具体的な進歩には繋げられないよな、と思って、自分はそういう発言をしないように気を付けるようにしました。つまり、反面教師にしたんです。
理不尽でつらいと感じられる環境でも、何かしら自分の成長の糧となるものを得よう。
その発想の転換は、梶谷を大きくステップアップさせることになった。
信念を貫くための週末開業
2年ほど勤務してから、梶谷は週末開業をスタートさせた。平日はいままで通り治療院で働き、週末だけ自宅で、自分が院長となって患者さんを迎える。それは、近い将来の独立を見据えての行動だった。
梶谷:もちろん、ただのストレス発散で開業したわけではありません。この決断に至るまでには、たくさんの人に相談に乗ってもらいましたが、一番聞いてもらったのが最初に働かせてもらった整骨院の院長。いろんな経験をなさっている方なので、独立ってこういうもんだよ、というリアルな情報をくださいました。そして技術面でも常に勉強して向上心を持っていましたから、一緒に勉強させてもらいました。
人間関係に疲れるのが嫌だから、とか、一国一城の主になりたいとか、そういう思いで独立する治療家もいると思います。別に否定はしません。でも僕としては、治療方針の合わない院で働くより、自分の良いと思うやり方を貫きたかったんです。それは、専門学校やアルバイトを通して知り合う治療家たちと関わった中で決めたことです。治療技術の勉強も、学校以外でもたくさんしましたし、アルバイト先で患者さんがどうして欲しいのかを感じ取る機会もたくさんありました。そういう経験を通して、「自分でやるべきだな」と思ったんです。
治療技術の研鑽を続けていた梶谷は、保険を使った診療ではなく、最初から自費診療のみの治療院にしていこうと決めていた。
「安いから通ってもらえる」と感じるのは抵抗があったし、何より患者さんが「たとえ痛みが改善されなかったとしても、保険が効いて安いならそれでいい」と、体の改善を諦めてしまうことを避けたかったのだ。
自費診療だけの治療院は、当時はそれほど多くなく、また保険診療から自費診療に切り替えて失敗する院もあった。
だから梶谷のその判断に対して、友人からも反対や心配の声が上がったものだった。
それでも梶谷は、自費診療のみの治療院にするという方針を変えず、ひっそりと自宅で開業させた。
週末だけ。そんな短時間でも自分の信念に沿った治療ができるのは嬉しかった。
梶谷は、ひっそりと自分の院のチラシを配り、サイトを公開した。
ある患者さんとの出会い
人が院長を務める院に勤務する中で、患者さんが自分を求めてやってくるのと、自分が開業した院に患者さんがやってくるのとは、似ているようで実はだいぶ違う。
梶谷は、院に勤めている間も自分は責任をもって施術に臨んでいると思っていた。
しかし、自分の院を開業すると、その責任の重さが全く別次元であることを思い知らされた。
まだその時点では、住んでいた実家の一部屋を施術室にして、週末のみ開業していただけなので、患者さんが全く来なくて経営が傾くという危険はない。つまり、お金の心配をする必要はなく、お金を稼ぐことを目的にする必要もなかった。
患者さんの話を丁寧に聞き取って、症状が改善されるまで根気よくサポートする。
そのことだけを目標にして、そのことについてだけ成果を追い求めて、梶谷は患者さんと向き合った。
大々的な集客活動はしていなかったからこそ、来てくださる患者さん一人一人とは、来てくれたというだけで深い縁が感じられる。
「この人の悩みを絶対に解決したい」
梶谷は、ただそれだけの思いを持って施術に臨んでいた。
週末開業時に出会った全ての人に感謝しているが、梶谷には、中でも特に印象深い人がいる。
その人は、30代後半の男性。チラシとサイトを見て来院してくれた。
他の治療院に行ってもなかなか良くならないという重い腰痛を抱えていて、心底困っている様子だった。
その頃の梶谷には、施術を通して、あることに気づき始めていた。
通常、整骨院などに行って「腰が痛いです」と訴えると、腰を中心にした施術をされることが多い。電気治療をしたり温められたりして、最後にマッサージをしておしまい、というのがよくあるやり方だろう。
しかしそれでは、一時的に痛みが取れ、気分が良くなることはあっても、根本的な解決には至らない。
なぜか?痛くなる人には痛くなるだけの理由があるからだ。
30歳の人なら、30年間生きてきた中で積み重ねた体の均整の具合や、筋肉の付き方、姿勢の保ち方が体の中に染みついている。それに加えて、どんな仕事をしているか(立ち仕事なのか力仕事なのか、事務作業なのか)、子供はいるのか(普段よく子供を抱っこするか、添い寝するか)、休日はどんなふうに過ごしているか(ゴロゴロしているのかスポーツに励むのか)など、その人なりの体の使い方もある。
その中に、腰痛を悪化させる要因があるなら、まずはそれを取り除かなければならない。そのためには患部をマッサージするだけでなく、生活習慣や体の使い方を改善するための指導も必要だろう。
そしてそのような指導を受けることなく、改善させるきっかけもないまま年数が経っているのであれば、その人の体は、その年数分の歪みや、何かのきっかけで表面化する痛みの根源が潜んでいることになる。
「腰痛」「肩こり」
などと、症状を言えば簡単そうに聞こえるが、その根は深い。
患部だけをどうにかして治るような不調なんて、あるはずがないのだ。
梶谷は施術を通してそんなことを感じていた。
「しかしそのことを、なんて患者さんに説明すればいいのかな・・」
根本的な痛みの改善を目指すなら、患者さん自身がその自覚と意思を持たなければならない。そのためには、この説明をただ耳に入れるだけでなく、理解し、共感してもらわなければならないのだ。
「わかりやすく伝わる言葉はないものか」
梶谷は言葉を探した。
そして得たのが、「年輪の喩え」だ。
梶谷:人の体の状態は、まさに木の年輪のようです。歩き方、立ち方、座り方などの当たり前にしている動作が積み重なって、その人の体ができている。見た目もそうだし、健康状態、痛みの具合など、その人の歴史が刻まれているんです。
不調を改善させてより良い状態にするためには、年輪を解読する必要があります。それが治療家の仕事。積み重なった年輪を無くすことはできませんが、体に悪影響を与えている部分まで立ち戻って綺麗にしてあげることはできる。
年輪の喩えを話すとき、梶谷が患者さんに求めることがある。
それは、自分の体を自分で管理することだ。
治療家は、年輪を綺麗な状態に、そして最小限の大きさに留めることはできる。
でもその先、また悪い習慣などを続けて自らの体を痛めてしまうのは患者さん自身だ。それは意図的でなくても起きてしまう。人は、生きるだけで体を壊していくものだし、最高に素晴らしい状態でい続けられるなんて、まずありえない。
それでも、本人の心がけと理解によって、不調をおさえていくことはできる。
そこは治療家と患者さんが、お互いに信頼し合い、助け合いながら築き上げていくものなのだ。
その30代の男性患者さんにも、梶谷は話を聞くことから始め、施術を行い、自信の体を管理することへの理解を求めて、まさに二人三脚で腰痛の改善に取り組んだ。
信頼関係が厚く構築されていくに従って、あれほど辛く重かった腰痛は徐々に改善されていった。
「先生、だいぶ良くなりましたよ」
そう話す男性の表情は明るく、またそう簡単に再発させてたまるかという意志すら感じさせるものだった。
「信頼関係を構築しながら年輪を紐解いていく。このやり方でやっていけば大丈夫だ」
梶谷はそう確信した。
人間関係に悩みながらも2年半勤め続けた治療院を退職し、週末だけでなく完全に独立する。そう決めて動き出してから、実現するまで、時間はかからなかった。
避けられがちな症状こそ受け入れていきたい
いくら理念と信念を掲げて独立しても、初めての経験なら誰でも、不安のあまりブレることはあるだろう。梶谷も、開院当初はそうだった。
「患者さんが来てくれるだろうか」という不安に駆られ、自身の理念であり持ち味でもあった、「徹底的に患者さんの話を聞き、寄り添って信頼関係を築き上げる」という基礎を忘れて走り出してしまっていた。
結果は正直なものだ。チラシを配っても患者さんが来ない。焦るばかりの日がしばらく続いた。
しかし、軸がブレていることは冷静になって考えればすぐに自覚できる。
患者さんの、今現在抱えている「痛い」という問題に右往左往することなく、年輪を紐解くために対話を重ねるべきだと改めて思い直してから、まず施術方法が変わっていった。そして、問診の内容も大きく変化した。患者さんと、人と人として向かい合うことを意識して臨むと、患者さんの体の反応も変わる。そうして、徐々に来院数は増えていったのだ。
梶谷:常々感じていることですが、最も多い悩みは「いつも痛いわけじゃないけど、何かの拍子に痛くなる、そして不安になる」という、不安定な症状だと思うんです。いわゆる不定愁訴ですが、これを単なるメンタルの不具合と捉えて突き放すのは乱暴です。
ただしかし、実際のところ治療は簡単ではありませんから、勤めていた頃の僕は、不定愁訴の患者さんが来ると少し身構えていました。でも今は、「どーんと来い!」って感じです(笑)。勉強もしましたし、それだけの実務経験も積みました。メンタルに原因があるにしてもそうじゃないにしても、患者さんとの対話で改善方法を模索し、見つけることができるようになりました。
施術方法と問診を見直してからより重い症状に悩む患者さんが訪れるようになった。
すべり症、脊柱管狭窄、手足のシビレ、不定期に起こるめまい、整形外科や整骨院に散々通っても治らなかった腰痛。
どれも、体の不調だけにフォーカスして施術を行っていては改善させられない症状だ。話を聞いて、年輪を紐解いて初めて、根本からの改善に取り組むことができる。
不定愁訴の患者さんが来ると身構えていた梶谷は、もういない。
原因不明の不調で不安に駆られている患者さんにこそ、その人の専門医になりたいと願っている。
梶谷:完治は、ありえません。「絶対に治りますよ」って言ったらウソになるので、僕は言いません。根本から治すためにはお互いの努力が必要で、でも生きながら体は壊されていくものなので、結局はイタチごっこなんですよね。
でも、だからと言って治療や、「もっと健康で元気になりたい」という思いと努力が無駄なわけではありません。真剣に取り組めば、その分の成果は必ず得られます。完治は無くても、今よりはるかにいい状態まで持っていくことはできる。そのために、患者さんとの信頼関係を大事にしています。僕の夢、目標は、僕の院に来る患者さん全員が、何歳になっても歩けるお体でいてくれることです。
週末開業の最初から今に至るまで、ずっと通い続けてくれる患者さんもいる。週末開業で施術した一番初めの患者さんは、今は奥様と一緒に来院してくれる。
梶谷が時には迷いながら、ブレることもありながら、あるべき治療の道を模索して今に至るまで、ずっと信頼し続けてくれているということなのだろう。
治療家として、一人でも多くの方にとっての健康のパートナーになりたい。
お互いに信頼し合い、大切な家族のことも任せられる存在になりたい。
この人の笑顔を見るたび、梶谷はそう感じる。
同じように笑う人をもっともっと増やしていきたいと願っている。
正しい知識をより広く知らせていきたいという思い
最初に勤めた整骨院の院長や、そこから広がった治療家の輪を通して、梶谷は常に最新で最良の治療技術を身に付け、体に関する知識を深めている。
今の梶谷の目標は、「健寿の森整体院」に来てくれる患者さんの症状を改善させることと、世の中の治療家の質を上げる活動をすることだ。
そのために正しい情報発信と治療技術の伝達を常に行いたい。そのために仲間たちと日々準備をしている。
梶谷:いくら高い治療技術を身に付けても、体と健康に関する正しい情報が広まらないことには、世の中の人々の健康状態は向上しませんから。
恐いことを言いますが、これから未来に向かって、どんどん病気は増えていきます。これは間違いありません。これからもっと便利になる世の中の発展で人はより歩かなくなり、今までなかった病気、病名が増えて、西洋医学ではその対応に追われ続ける。特効薬が開発されたり、新しい手術法が開発されたりしていくと思うんです。それはそれで大切なことですが、一人一人が自分の体のことをよく知って、管理して、ある程度はいい状態を保つことができるようになっていけば、その流れに逆らえるはずです。医療の発展を待つのではなく、病を防げる体にしていく努力も必要です。そのために正しい知識を広げていきたいと思っています。それが僕の使命ですね。
体と健康に関する、正しい知識を広めたい。
そう話す梶谷の語尾は、自然と強いものになる。
その部分にこそ強い使命を感じていると同時に、難しさを感じている証拠だろう。
世の中にはたくさんの情報がある。
溢れかえって、どこを拾えばいいか、判断にすら困る状況だ。中には誤った情報もあるし、悪意で捻じ曲げられた情報もある。
体や健康に関する情報だけを取っても、中身のないものに振り回されている人がたくさんいる。梶谷は情報を発信する側になってから、そのことを強く感じるようになったし、それだからこそいち早く正しい情報を広めなければならないと感じている。
また、価値観の違いによって、採るべきではない選択肢を選ぶ人もいる。
例えば、美容のために健康の優先順位を下げてしまうこともある。
医療の発達を信頼するがあまり、自身の健康管理を怠っても良いと考える人もいる。
それが遠いどこかで起きているのではなく、今日も明日も、梶谷の身近な、大切な人の中で起きているのだ。
自分の無力さを痛感させられることも少なくない。この人がこの判断をする前に、自分にはもっとできることがあったんじゃないかと悩むこともある。
それでも、より正しい情報を広めて、いくつになっても歩ける人々を増やすために、歩みを止めるわけにはいかない。
あなたにも一度、「健寿の森整体院」の扉を叩いてみて欲しい。
その日に至るまでのあなたの歴史、年輪を紐解き、今後のあなたの体と健康と共に支えてくれるパートナーとなる、梶谷という人物が、じっくりとあなたの話に耳を傾けるはずだ。